健全なネットワーク社会を支える三本柱の情報セキュリティは,
利便性の低下を最小限に抑えながらも,
できることから対策を施していくという地道な作業の繰り返しによって維持されています。
すなわち,私たちには技術・規制・倫理の3つの力のいずれかのみに頼らず,
それらの知識をバランスよく身につけると同時に,
実際の問題に対してはそれらの知識を用いて総合的な判断をすることが求められているのです。
こうしてネットワーク社会で獲得した情報リテラシーや
メディアリテラシーを通じて育成された私たちの力は,
「生きる力」の一部となり,
ポスト産業化社会といわれる現在の流動的な高度情報化社会の中において,
精神的・物質的に豊かな現実社会を築く原動力となるとも考えられます。
私たちはネットワーク社会においても,
現実社会と同様,最終的にはみずからの自律と責任において行動していかねばなりません。
そして,そうした行動の前提には,以上のような技術・規制・倫理の三本柱のそれぞれが,
それぞれの特性を活かし,インターネットの利点をそこなうことなく
バランスよく調和・発展していくことが必要とされるのです。
たとえば,初心者がはじめてメーリングリストに参加し,
いわゆるHTMLメールを流したとしましょう。
インターネットに慣れた人がそれをばかにして非難することは簡単です。
しかし,そのことによりその初心者は萎縮してしまったり,臆病になってしまい,
ネットワーク社会から退いてしまうかもしれません。
そのように倫理がルール化し,それが絶対基準になってしまうことは,
むしろ法規制とは異なるところに意義のある倫理規範の
自滅行為であるとも考えられます。
その意味でいわゆるネチケットをルールととらえるか,
倫理規範ととらえるかには,実は微妙な問題があります。
こうした考えは情報倫理にも援用できると思います。
学校などでの限定された設備の中での利用などの特殊な場合を除き,
インターネットには初心者だけを集めた部分ネットワークや
熟練者だけが使える部分ネットワークがあるわけではありません。
それゆえ熟練者は初心者といっしょのネットワーク社会の中で次世代を育て,
健全なネットワーク社会を形成していくという,
まさにネティズンとしての社会的責任があります。
これも一種の情報倫理なのであり,
未成熟なゆえに非常識なふるまいをした者を罵倒して萎縮させ,
インターネットやコンピュータの世界から遠ざけてしまうことは避けねばなりません。
倫理のみに依存するのも危険です。
最初から倫理を身につけた人間はいません。
たとえインターネットを利用する前に学校で話だけを聞いたとしても,
自動車に乗らないで運転の本を読んだようなものです。
現実のインターネットは応用問題の宝庫なのです。
米国における子どもの権利理論に,権利の「道具理論」という考え方があります。
これは,子どもは大人と同じように権利を持つわけではないが,
現実社会への対応力を育成するためには,大人に準じたような各種の権利や
自由(表現の自由など)を「道具」として,試行錯誤しながら行使することが必要だとするものです。
規制のみに依存する場合はどうでしょうか。
たとえば,ドイツのように「マルチメディア法(1997年)」にインターネット上の
表現行為への規制がうまく盛り込まれた国もありますが,
米国では18歳未満の未成年者に対して下品な表現や
不快な表現を送信することを禁じた「通信品位法(1996年)」ですら,
表現の自由を過度に規制するとして連邦最高裁で違憲判決を受けました(1997年)。
問題をなくそうとしてあまりに規制を強くすると,
本来保障されるべき自由や権利まで規制の範囲に入ってしまう恐れがあり,
ネットワーク社会の健全な発展を逆に阻害してしまうことにもなりかねません。
また,Webページなど,サーバのコンテンツの管理責任をプロバイダに過度に負わせるのは,
プロバイダを過敏にし,問題のないコンテンツや政府に
都合の悪いコンテンツを削除させるという結果を生み出して,
自由闊達なインターネットの活力を奪うのではないかと懸念されます。
さらに,官民の監視もあまり強くなると,暮らしにくい窮屈なネットワーク社会になりそうです。